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どこでどんな石が見られるだろう?同じ特徴をもったエリアはどのくらいの広がりを持っているのだろう?こういったことを地図上に表したのが地質図です。5万分の1、20万分の1など、縮尺はさまざまです。目的によって、基本の地質図のほか、炭田図や海洋地質図、重力図、断層位置を示した構造図などが作られます。北海道は全国的に見ても地質図がよく整備されている地域です。これは道内の資源が重要であったことの証でしょう。地質図の中では5万分の1のものが特に基本となりますが、道内では国の機関である地質調査所のほか、北海道開発庁、道立地下資源調査所(現地質研究所)も発行しています。
道内の資源は古くから注目されていました。たとえば砂金は13世紀から産出が知られ、石炭の開発は江戸時代末から行われています。
「近代地質学」の目で初めて北海道の調査をしたのは、アメリカ人BlakeとPumpellyの2人です。彼らは江戸末期の1862年、幕府の招きで渡島半島の踏査を行って地質図を作成しました(1866年と1871年=カラー版=に英語で発行)。これが日本で作られた地質図の始まりで、東アジアでも最初とされています。
明治時代初期には、3人のイギリス人(Gower Mitford Adams)が積丹半島南西部の茅沼炭田を調査して発表しました(1868と1869年)。またAntisell Lyman Munroeらが開拓使に招かれ、北海道の地質調査を実施します。LymanはMunroeや日本人の弟子たちとともに道内を広く踏査して、炭田や油田などの重要な場所の地図や地質図(5千分の1)を作成しました。
さらにこれまでの踏査結果を参照しながら、全道の地質図を作成しました。1876年のことで、大きさは40cm×52cm、石版をドイツから取り寄せてリトグラフを作成し、函館でおよそ300枚を発行しました。これが日本ではじめての「地域地質図」になります。
こののち、北海道の地質調査は同調や地質調査所が鉱山資源を対象に行うようになります。はじめはLymanの弟子たちが、その後新しい技師たちが次々に加わりました。
北海道で石炭が最初に発見されたのは、江戸時代(1800年頃)白糠炭鉱での話です。本格的に開発が行われるのはその50年ほどあとになります。函館港に外国船が入港するようになって、燃料補給の必要が生じた幕府が白糠炭鉱を直轄にしてからです。今日は明治に入って石炭の調査や採掘が広く行われるようになった頃のエピソードを紹介します。
開拓使という名前のお役所ができました。国は石炭や砂金などの北海道の豊富な資源、あるいは広い原野に国力増強の期待をかけました。そこで海外から専門家を招き、調査や開発の手ほどきをしてもらうことにしたのです。
地質分野で呼ばれた技術者の中にライマンというアメリカ人がいました。ライマンは非常に優れた人物で、弟子を育て、広く道内を歩いて
新しい調査法を導入し、日本人の弟子たちとともに石狩炭田開発の基礎を築きました。石狩炭田とは、東西約30km、南北約85kmにおよぶ日本最大級の炭鉱で、空知地方・夕張地方などを含みます。
石狩炭田の中のひとつに「幌内炭田」があります。この炭田の開発によって人の行き来ができ、三笠市や岩見沢市が誕生するもととなりました。その発見の頃のお話です。
その後石炭業界は発展を続けます。1950年代までは社会情勢とともに好況・不況が推移していきます。しかし1962年に石油の輸入が自由化され、その後は衰退に向かいます。
最盛期の1958年に142あった炭鉱数は減りつづけ、1986年23、1990年4、2000年現在は太平洋炭鉱のみ稼動中です。
1mの炭層ができるのに、17~20mも植物が積もる必要があるといいます。日本の石炭のほとんどは新生代古第三紀(数千万年前)のものです。当時の北海道も大量の木が育つのにいい気候で、これらの遺骸が流れ着くような湖や沼地、潟などがあって、しかもその後石炭ができるような地熱・地圧的条件が整っていた、ということになります。
日高山脈は日本列島の中でもよく知られた造山帯(山を作っているところ)です。
地球の表面を覆うプレートの境界部分にあたり、地殻変動や地震活動が活発に起こる地域を変動帯といいます。昔の変動帯(昔プレートの境界部分だったところ)が現在山脈になっていて、こういうところが特に造山帯と呼ばれます。これが現在主流の考え方です。以前は少し違う考え方が主流でした。
大立目健一郎さんという人です。この人は昭和8年に北海道大学で卒業論文をまとめています。卒論とその後まとめた論文で夕張炭田の詳しい地質構造を研究し、夕張炭田に東から巨大な力が加わったことと、その東からの巨大な力が"日高造山運動"によって引き起こされたのではないかということを指摘しました。
1950年代頃から日高山脈の調査は、北海道大学教授だった舟橋さんや橋本さんを中心として精力的に進められました。その結果から"日高造山運動"という一大理論が構築されました。ここでいう日高造山運動とは、地向斜造山論という当時の学問の流れを汲んだものでした。つまり、『北海道の中央部は海だった。この海に堆積物がたまっていくが、海の底がだんだん深くなるので堆積物の層も厚くなっていく。こうしてできた厚い堆積物がそのうち盛り上がりの動きに転じ、褶曲や変成作用を伴いながら山脈を作った。』というものです。日高造山運動はアルプス造山運動と対応する典型的な造山運動とされ、長いこと教科書などで紹介されてきました。続きはまた来週。
今日のキーポイントは「プレートテクトニクス」です。先週の続きをどうぞ。
プレートテクトニクスというのは、地球が何枚かの厚い板で覆われていて、ほとんど形を変えずに水平方向に動き回っているという考え方を基本とする理論です。日高山脈の成り立ちを考えるときも、現在はプレートテクトニクスの考え方が基本となっています。
プレートテクトニクスの理論が誕生したのは1967-8年、日本に広まったのは70年代~80年代初めにかけてです。プレート理論によると、現在山脈になっているのは昔プレートが衝突したところになります。ヒマラヤ山脈がユーラシアプレートとインドプレートの衝突でできたというのは有名ですが、同じように日高山脈もプレートがぶつかることで誕生したんだというのが新しく出てきた見方です。
70年代後半から80年代にかけて、当時北大、新潟大、山口大、島根大などに所属していた若手研究者たちが熱心に調査を進め、プレートテクトニクスの考え方を勉強し、道東側のプレートとユーラシア側のプレートがぶつかって山を作ったという見方を確立させました。