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2016年2月2日更新

12月2日 石を調べる人々(2) 神居古潭帯を認定した最初の地質図

【神居古潭帯とは】

神居古潭帯変成帯とも呼ばれます。南は三石町から夕張岳などの山地、上川盆地の西側(江丹別や幌加内など)を通って北はサハリンに達する南北に細長いゾーンです。神居古潭峡谷が有名。主に高い圧力を受けた変成岩と蛇紋岩からなります。神居古潭帯で見られる岩石が高い圧力を受けていることは、1930年代頃から指摘されていました。そのほか、あまり変成度の高くない石や海のプレートにまつわる石など、かなり多様な石を含みます。しかも1億年という長い期間にわたって、順次地表に岩石を露出してきたことも近年わかってきました。

【神居古潭帯を初めて区別した地質図】

旭川(上川盆地)の西側にある、神居古潭峡谷などを含む古い地層が地質図上ではっきり区別されたのは1940年のことで、北大教授だった鈴木醇さんの意見に基づいています。

【地質図作成の力となった北大理学部の誕生】

この地質図の作成に大きな力となったのが、北大理学部の面々でした。昭和5年に設置された北大理学部で地質学鉱物学教室(現在の地球惑星科学科)が誕生しました。新進の教授陣や学生たちが活発に研究を進め、その成果が地質図に多く取り入れられました。

【昭和15年地質図の末路】

昭和15年、それまでの調査資料を駆使し、表現にも気を使った優れた地質図が完成しました。1000部発行され、一部は販売もされました。ところが発売開始後まもなく陸軍省の命で没収されてしまいます。機密保持のためで、当時は発売禁止だった知床半島の山の標高が記されていたことや、海岸沿いの沖積層(平野など)を載せたことで敵に上陸地点を示すことになる、などが理由だったようです。結局世に出たのは250部程度、道警本部で保管されていた回収分は終戦間際に火災で燃えてしまったとのことでした。

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12月9日 石を調べる人々(2) 化石

北海道で化石といえば、アンモナイトやイノセラムスが有名です。ここ日高町でもいくつも見つかっています。

【化石はどうやってできるのか?をめぐる考え方】

『化石は昔の生物の遺骸で、それを含む地層がいつ頃できたか、どんな環境だったかを知る大きなてがかりである』という今では当然とされる考え方も、実はそれほど古くからそのように考えられてきたわけではありませんでした。
紀元前500年頃。ギリシャのタレスさんや弟子のアナクシマンドロスさん、クセノファネスさんらは、「化石は昔の生物の遺骸だ」「貝化石が山の中にあれば、それはかつてそのあたりが海だった証拠とみる」など、今の私たちと近い認識を持っていたようです。あるいは中国でも、8世紀に生きた顔真卿(がんしんけい)さんや、12世紀の朱子さんは同じような認識だったようです。
一方、紀元前300年頃の哲学者アリストテレスさんは神秘的な特殊な力で化石ができると考えました。この説は長いこと影響をもち、中世ヨーロッパでは「自然のいたずら」や「神のたわむれの作品」とする考え方が支配的でした。たとえば脊椎動物の化石を、ノアの洪水で溺れ死んだ罪深い人間の化石と考えるなどです。そんな中、かのレオナルド・ダ・ビンチさんは土木工事の経験から、化石が過去の生物であることや、海が陸地になるような地殻変動を受けたから陸地で海の生物の化石を見ることができる、などと考えていました。しかしこの説は死後100年も日の目を見ませんでした。
その後ヨーロッパに産業革命の嵐が吹き荒れ、大規模な土木工事が各地で行われるようになってからのちダーウィンの進化論が発表され、化石に対しても現在のような考え方が確立されていくことになります。
ちなみに日本では、江戸時代に木内石亭さんが415の珍しい石を8つに分類して「雲根志(うんこんし)」にまとめました。この中には貝化石やくるみの化石、サメの歯の化石(「天狗の爪石」の名で)などが含まれています。

山脈館でも化石は大人子供問わず人気です。命を持っていたと思うことで、石をまた違った魅力が感じられるからでしょうか。

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12月16日 石を調べる人々(2) 鉱石:日高町の町史から

【砂金】

日高町で鉱業の歴史として最も古いのは砂金になりそうです。明治43年、志賀三四郎さんが沙流川で砂金取りを試みました。場所は現在の日高町市街地よりやや平取寄りです。しかし含有量が少なくてほどなく中止。そこは銀沢として今でも名をとどめています。

【クロム】

大正3年にクロムの試掘許可が申請されています。場所はチロロ川の支流ペンケユクトラシナイ沢、パンケユクトラシナイ沢、ポロナイ沢。申請したのは岩手県釜石鉱山田中製鉄所の横山久太郎さんです。翌年試掘していますが、どうも取り出すのが大変だったようです。

【銅】

同じく大正3年、ポロナイ沢で銅の塊が見つかっています。栗栖清之助さん、矢野豊吉さんの両名が、ところどころ石の混じった扁平な銅の塊を発見しました。重さは約三十余貫とあります。釜石製鉄所に送ったとされています。ちなみに山脈館でも自然銅の塊を展示しています。大きさは両手の平で抱えるくらい、自然銅でこの大きさは専門家でも目を見張るもので、開館にあたって東北大学の先生に鑑定していただき、お墨付きをいただいています。どうしてこのような塊ができたのかはまだわかりません。

【昭和以降】

さて、その後も試掘は続きます。昭和に入ってからも試掘に伴う税金が納入されていて、金額は徐々に増えていきます。種類は金、銀、銅、鉄、クロム、石綿などです。昭和8年に東京の日本精錬(株)がクロム、鉄、石綿の採掘権を得ていますが、この動きは日高地域の将来性を内外に宣伝する結果となり、権利獲得の競争が起きたようです。町史には「きな臭いものが立ち込めることにつながった」とありました。しかし実際には不況の影響もあって企業化までは至らず、試掘のまま推移します。
にわかにクローズアップされるのは昭和16年前後です。戦争用の素材としてマンガン、クロム、石綿などの需要が増大し、続々と採掘業者がやってきました。小規模な鉱山も含めると10以上稼動していました。軍事機密にあたるため採掘量は不明ですが、かなりあったようです。しかし戦争が終わると需要がストップし、終戦と同時かあるいは数年のうちにことごとく休山・閉山に追い込まれています。
その後昭和35年の報告書でかんらん岩の岩体が報告され、現在も採掘が続いています。

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12月23日 石を調べる人々(2) 海でのお話

海でも地球を調べる調査が広く行われています。方法はいくつかあります。海での地震調査は海洋地震計、直接サンプルを見るならボーリング、などです。今日はこれ以外の反射法地震波探査という方法とその成果を紹介します。

【海でも地下を調べたい・・・反射法地震波探査】

人工的な地震を起こし、それが地下で跳ね返ってきた様子から地下の具合を探るやり方です。陸上でも海上でも行われます。震源はエアガンやダイナマイト、陸上の場合は専用車両で地面を揺さぶる、などです。一定区間ごとに測定用のセンサーを設置します。石油探査に活躍してきた手法です。

【四国沖の調査・・・巨大地震の震源域はどうなっているか】

去年、地質調査所などが中心となって四国沖でこの調査が行われました。この夏、途中経過が"海溝型巨大地震発生帯へのバーチャル探検"と銘打って東京で公開されました。場所は室戸半島の沖合いです。南海トラフという名の海溝(みぞ)が走っています。南海トラフでは巨大地震が何度も繰り返して発生していて、最近では1946年の南海地震で1300人を超える犠牲者を出しています。これまでにも潜水調査線を使って海底表面を見たり、掘ったり、地震探査などが行われ、震源断層と思われるものが発見されたり、海山が沈み込んでいく様子がわかったり、付加体の様子がわかってきたりと成果をあげています。今回の調査はより大規模、広範囲に行い、もっと深いところ&もっと詳細に&もっと三次元的に構造をみて、地震発生機構の解明や対策につなげたいとの目的です。データはスケルトンな三次元図で表され、沈み込んでいく海のプレートの表面や、付加体の中の数多くの断層の様子などが示されています。海溝から36kmくらいはなれたあたりに巨大な逆断層がたくさんあるのですが、ここは普段から動きやすいので大きな地震にはつながっていません。むしろさらに陸地側の、海のプレートとその上の地質体との境界がはっきりしなくなってくるあたりが震源域と考えられます。普段はくっついていて、あるときバンと大きくすべることで大地震につながるのです。

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12月30日 石を調べる人々(2) 土木と地質

【生活に欠かせなくなっている地質調査】

現代の生活の中で、道路、トンネル、ダムなどの大規模な建造物はすでになくてはならないものとなっています。これらの工事をするには地質調査が重要な意味を持ちます。そこで、建設業界でも地質学出身者が数多く働いています。この場合の地質調査は「応用地質」や「土木地質」などの名称となり、いわゆる理学系の地質学とはやや違った視点が必要になります。これは最終目的が違うためで、「この山は白亜紀の砂岩からできている」だけではなく、「だから建築物の岩盤としての強度は十分である(心配だ)」という実用的な視点が要求されます。
地質は自然相手の学問ですから均一なものではなく、法則に当てはめれば解が得られるものでもないのが難しいところであり面白いところでもあるのでしょう。

【工事と地質のかかわり たとえば蛇紋岩】

蛇紋岩は北海道の中央部を南北に貫くように大規模に分布します。蛇紋岩は軟岩に分類される岩の一種で、それ自体は水を吸わないものの、葉片状(薄くはがれる状態)や粘土状になったものが多く、掘ると膨張してくることが多いです。地すべりも多くなります。
そんな地域に作られた鷹泊ダムは塊状で硬い岩盤を探して建設され、後のモデルケースとなりました。
トンネルも難しい工事になりますが、戦後多くの建設が行われてノウハウが蓄積されています。たとえば、地山に影響の少ない方法で掘り、即座にコンクリートを吹き付けてゆがみを起こさせないようにするなどいろいろと手はあるそうです。

【これからの視点】

今までは「経済的」かつ「安全」が最優先されてきたのだと思います。基本的に開発を前提とした学問であり、工法であったのでしょう。現在はさらに「環境」がキーワードになる時代です。
言ってみれば"量の問題"にかかわるのでしょう。昔は問題にならなかった工事も、大規模に数多く行われるようになると影響が大きくなってきます。じゃあどうすればよいのか・・・個人も組織も考え方を問われ、柔軟さを要求される時代がきている気が私はしています。どうぞよいお年をお迎えください。

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